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鳥屋野潟の歴史 No.1
〜農民の戦い。そして日本一の穀倉地帯へ〜

人が作り出した亀田郷の美田と鳥屋野潟

鳥屋野潟の周りにはビックスワンや県立自然科学館など新潟県を代表する施設が立ち並び、国道ではせわしなく車が流れています。鳥屋野潟は都心のオアシスであり、その奥に広がる美田は日本を支える穀倉地帯として有名です。
この美しい鳥屋野潟の風景は決して自然の力で作られたわけではありません。現在の鳥屋野潟は、信濃川よりも日本海よりも低い位置にあります。自然の力に任せれば、公園も住宅もたちまち潟に沈んでしまうでしょう。かつて「地図にない湖」と呼ばれ一面泥沼のようだったこの地域に稲を植え、水害と戦ってきた先人の努力と、人間の土木技術の進歩が可能にした「作られた自然」なのです。
一本松

8人の開拓者と一本松

鳥屋野潟公園の清五郎地区を潟沿いに進むと、ひときわ目を引く一本の松が見えてきます。この松はかつて堤防に植えられ、鳥屋野潟の歴史をじっと見守ってきました。鳥屋野潟は越後平野が作られる中で生まれました。およそ6000年前(縄文時代前期)越後平野は村上と角田山を結ぶような砂丘によってせき止められた汽水であったが淡水の割合が高かったと想定されるので、大きな水たまりに信濃川や阿賀野川から土砂が運び込まれ、陸地と潟が入り組んだ地形でした。縄文時代から平安時代の遺跡が発見されていますが、鎌倉時代以降の遺跡が少ないこと、その時期は地球温暖化が進み海面が上昇していたことから、室町時代まで鳥屋野潟周辺は広大な低湿地帯だったと考えられています。
多くの村が作られ始めたのは、16世紀末に溝口秀勝が新発田藩主として越後に入部して新田開発が始まってからです。清五郎地区は1640年に8人の農民によって開墾されたと伝えられています。蛇行した信濃川や阿賀野川は度々洪水を起こし、海岸沿いに並んだ砂丘列に阻まれた水はずっと鳥屋野潟の周りに溜まっていました。亀田郷一帯はなかなか排水されず「地図にない湖」とも言われていました。夏場には鳥屋野潟の水位が下がるため栗の木川から海水が逆流し塩害をもたらします。農民たちはおよそ田植えに適さない劣悪な環境に耐え、少しでも村を水害から守ろうと堤防を築き、一本の松植えました。以降、この松は広い潟で舟が方向を見失わないように道しるべとして農民たちを支えてきたのです。

母なる潟を守り、命を削って米を育てた農民たち

鳥屋野潟周辺の農民たちは冷たい泥水に腰まで漬かりながらの田植えや稲刈り、水車を踏み続ける作業に従事しました。稲作をしていない時期には、潟から土を取ってきて田んぼに撒きます。肥料は水で流されてしまうため、各地から水が流れ込み栄養豊富な鳥屋野潟の土は大切な肥料でした。舟いっぱいまで土を積んでは田んぼに降ろす作業を何度も繰り返します。水害から稲を守るために少しでも田んぼの位置を高くしたかったのです。「三年一作」と言われるほど収穫のほとんど望めない土地で、それでも農民は「今年こそは豊作を」と土を高く積み上げ、昼夜つきっきりで稲を育てました。
潟は遊水池として重要な機能を担っています。大雨に襲われた時には郷内の水は全て潟が受け入れ、ゆっくりと日本海へ排水してくれます。1639年の地図によると亀田郷には大小さまざまな潟沼がありましたが、そのほとんどが新田開発のために埋め立てられてしまいました。享保時代(1716~1736)には鳥屋野潟を干拓する計画が立てられましたが、大切な土と遊水池機能を守るため、1732年に潟縁の百姓が団結し「鳥屋野潟新田反対訴訟」を起こし、計画を止めました。

歴史1_水の中で稲刈り_名前入り

芦沼から日本一の美田へ

どんなに辛い農作業に耐えても“河川の氾濫”と“排水の悪さ”のために収穫が見込めない生活、農民たちは治水の必要性を訴え続けていました。大正11年(1921)に大河津分水路が通水して信濃川の氾濫は激減、農民はついに洪水の不安から解放されました。
また昭和16年(1941)から戦時行政の一環として国営土地改良事業が着手され、昭和23年(1948)に東洋一の動力を持つ栗ノ木排水機場が完成、試運転の時点で鳥屋野潟の水位を1mも下げたと言われています。排水により乾田化した土地の耕地整理が行われました。形も大きさもばらばらだった田んぼは隣同士交換し合い、そろいの四角い形に。自分の土地から土を譲って道路を作る。古くから続いていた集落単位の用排水慣行を郷全体で統一し、ひとつになることで現在の広大な美田が作られていったのです。
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24時間体制で潟を見守る“親松排水機場”

1964年に発生したM7.5の新潟地震により、栗ノ木排水機場は地盤沈下と損傷で使えなくなりました。新たに潟の西側から信濃川まで水路を掘り4年後にできたのが旧・親松排水機場です。これも老朽化が進み維持が困難になったため、2007年現在の親松排水機場が動き出しました。
親松排水機場は24時間稼働し、鳥屋野潟の水位を信濃川より約3.2m低く保っています。また、親松排水機場では鳥屋野潟につながる全ての排水機場と揚水機場を管理し、亀田郷を水害から守っています。

 

 


作成
・新潟大学 長岡春菜

 

参考文献
・亀田郷土地改良区 2013年『水と土と農民』
・亀田町史編さん委員会 昭和63年『亀田の歴史 通史編』上巻
・とやの物語実行委員会 平成24年『図説 鳥屋野潟ものがたり』
・亀田郷農業水利事業建設所 平成20年『芦沼略紀』

 

鳥屋野潟を調べよう!
・新潟市歴史博物館 みなとぴあ・・・新潟市のかつての姿が模型や写真で見られます。
・江南区郷土資料館・・・亀田郷の歴史展示の他、古文書講座などに参加できます。
・芦沼館・・・亀田郷で使われていた農具や生活用品が約200点展示されています。
・みのりみらいプラザ・・・芦沼と呼ばれた時代のジオラマや映像が見られます。
・新潟県立自然科学館・・・新潟県の産業や交通の発展が学べます。
・関屋分水資料館・・・関屋分水ができるまでの過程と分水の重要性が学べます。

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