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鳥屋野潟の歴史 No.2
〜新潟市の中心地としての鳥屋野潟〜

都市化と汚染

やっと乾いた土に水を引いて稲作ができるようになり、農民は嬉々として田を耕しました。化学肥料と機械により農作業はずっと楽になりました。もう潟から重い土を何度もかき集める苦労も、潟から食料を獲ることもありません。人々の生活が経済的に豊かになっていくのに比例して、鳥屋野潟は必要とされなくなってきました。農民の共有地だった鳥屋野潟は複数の企業に買占められ、地価の高騰により農地の宅地化が急速にすすみ、やっと手に入れた美田は次々と住宅街に変貌していったのです。

歴史2_汚染により魚死亡_名前入り

よみがえれ!鳥屋野潟

鳥屋野潟には粗大ごみが投げ込まれ、生活排水と工場汚毒水、化学肥料の溶けだした農業排水の流れ込みにより命溢れる水辺の姿は完全に失われてしまいました。無断埋め立てやヘドロにより浅くなった鳥屋野潟は遊水池としての機能すら危ぶまれていました。“このままでは鳥屋野潟が死んでしまう”と危機感を募らせた市民が集まり1975年に「鳥屋野潟整備促進住民総決起大会」を開き、県はやっと鳥屋野潟の公園計画を進めたのです。鳥屋野潟のこれ以上の開発を止めたのと同時に、汚れてしまった潟の浄化事業を開始しました。下水処理施設による生活排水の浄化や、灌漑用水が止まる冬には環境用水として周辺の川から綺麗な水を流して、用水路や潟の水が滞らないようにしました。そして、 2002年には鳥屋野潟の水質が環境基本法の基準をクリアしたのです。

歴史2_桜まつり_名前入り

鳥屋野潟を再び憩の場に。地元企業の活躍

県や市の環境保全活動だけでなく地元企業や住民の活動も鳥屋野潟の再生に大きく貢献しました。1979年、地元企業の有志8人が集まり、鳥屋野潟周辺のゴミ拾いをしながらのウォーキングを企画しました。初回から500人もの市民が集まり、4トントラック2台分のごみが集まったそうです。1980年には新潟市南商工振興会が発足し、翌年「桜まつり」を鳥屋野潟の湖畔で開催しました。桜まつりでのゴミ拾い&ウォーキングは恒例行事になり、第6回の桜まつりではウォーキング参加者は2千人を超えました。2002年にはゴミ拾いの必要がないくらい綺麗になり、潟一周ウォーキングは自然を楽しむイベントとして「にいがたカナール彩」に引き継がれました。
歴史2_カナール彩

人の集まる、つながり広がる鳥屋野潟へ

近年、鳥屋野潟の周りには新しい飲食店や雑貨屋が並び、おしゃれな街として注目され始めています。毎年春には新潟県立スポーツ公園で「カナール彩」が開かれ、10万人近く参加します。体を動かすイベントやステージなど子どもからお年寄りまで楽しめるお祭りです。東日本大震災が起きた2011年のカナール彩では「みんなが力を合わせて被災地に元気を届けよう!」をテーマに、会場各地に募金箱を配置、石巻焼きそばの屋台には長蛇の列ができました。その後も被災地と鳥屋野潟のつながりは続き、復興支援グッズも生まれています。

 

 


作成
・新潟大学 長岡春菜

 

参考文献
・亀田郷土地改良区 2013年『水と土と農民』
・亀田町史編さん委員会 昭和63年『亀田の歴史 通史編』上巻
・とやの物語実行委員会 平成24年『図説 鳥屋野潟ものがたり』
・亀田郷農業水利事業建設所 平成20年『芦沼略紀』

 

鳥屋野潟を調べよう!
・新潟市歴史博物館 みなとぴあ・・・新潟市のかつての姿が模型や写真で見られます。
・江南区郷土資料館・・・亀田郷の歴史展示の他、古文書講座などに参加できます。
・芦沼館・・・亀田郷で使われていた農具や生活用品が約200点展示されています。
・みのりみらいプラザ・・・芦沼と呼ばれた時代のジオラマや映像が見られます。
・新潟県立自然科学館・・・新潟県の産業や交通の発展が学べます。
・関屋分水資料館・・・関屋分水ができるまでの過程と分水の重要性が学べます。

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